徒然草第11段
神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、
遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。
木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。
閼伽棚に菊・紅葉 など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、
大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、
少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
よく中学や高校の国語の教科書に載っている徒然草の第11段である。
古文といっても意味はたいへんとりやすいし
初歩的な古文学習の教材になるネタが多いので人気(教える側に)なのだろう。
よく解説されるのが
つゆおとなふものなし の掛詞で
つゆ(少しも と 露) おとなふ(訪れる と 音を立てる)
は試験問題の格好の素材になったりする。
ただこの段の最大の謎 というか議論の対象になるのは
この木なからましかば の この木 が何を指すかということ
国語の指導書とかには この木=まわりを囲っている木 となっていると聞いたことがあるが
それでは平凡すぎて面白くない
この木=柑子の木 と考えたほうが面白い
この住人に煩悩というか欲望を起こさせたのは柑子の木にほかならないからだ
ところで
最近 とあるサイトの現代語訳 が話題になっている
http://waranote.blog76.fc2.com/blog-entry-1181.html
10月くらいに、栗栖野ってとこのさらに向こうの山奥に行ったんだよ。
で、苔とかが生えてる小道をずっと登ってたら小っちゃい庵があったんだよ。
懸樋とかボロボロ、そこを流れる雫くらいしか音もしないようなとこだったんだけど、
仏さんを奉ってる棚に菊とか紅葉とかがちゃんと飾ってんの。誰か住んでるんだろうね。
で、こんなことに住んでる人間もいるんだなーとか思いながらそこらへんを見てたら、
めっちゃでかい柑子の木があって、そのまわりをめっちゃ柵してんのwwwww
もう興ざめもいいとこwww誰も盗らねーっつーのwwww
この段に関してはわりかしまともに訳してるけれど
この木 に関してはどちらともとれる訳し方になっている
ついでに
この木なからましかば の ましかば は
英語の仮定法過去にあたる 反実仮想 というもので
〜ば 〜まし
〜せば 〜まし
〜ませば 〜まし
〜ましかば 〜まし
の4種類がある
ここでは この木なからましかば よからまし
(もしこの木がなかったならば よかっただろうに)
の よからまし の部分が省略された形になっている
だから この木 がどちらをさすのかによって
全体の意味が大きく変わってしまうので
そこはもっと議論になっていいと思うのだが タブーなんだろうか
この柑子の木さえなければこの住人も現世の欲望を捨てて
安らかな隠遁生活をおくれただろうに
というふうに解釈したほうが説得力があるよ
著者は僧侶なんだし
最後に試験に出題されそうなところをあげておくと
大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが
という 同格の の である
これは英語の関係代名詞のようなもので
枝もたわわになった大きな柑子の木 という意味になる
格助詞の の は
1.主格
2.連体修飾格
3.同格
4.準体言
5.連用中止
などのさまざまな用法があるし
他の品詞との識別も難しいので結構手ごわいんですよ
まはりをきびしく囲ひたりしこそ、
少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
の係り結びもよく出題されます
覚えしか の しか は
過去の助動詞 き が 係助詞 こそ の結びで已然形になっているわけです。
似たような例として 仰げば尊し の 今こそ別れめ
(意思の助動詞 む が こそ の結びで已然形 め になっている)
などがあります
係助詞にはほかに ぞ なむ や か があり
これらが使われたときの文末はいずれも連体形になります。